川村ふとん店の歴史

当店の歴史は、昭和3年私のお爺さんである、川村吉兵衛が小さな製綿機を購入したことから始まりました。

  • 川村ふとん店の始まり

     昭和3年、私のお爺さんである、川村吉兵衛が小さな製綿機を購入したのがはじまりです。それまでは、米、塩、味噌など雑貨屋を営んでいました。たまたま見つけた小さな製綿機。それを見つけた吉兵衛は、これからの商売はコレだと直感しました。吉兵衛は、新しい人生のスタートとして「川村わた屋」を創業したのです。そして、百年続く睡眠工房川村ふとん店のはじまりだったのです。
     昭和16年12月8日、大東亜戦争がはじまりました。そんな中でも吉兵衛の「川村わた屋」は順調でした。しかし、順調だった仕事も終戦直前あっさりと、終わりを告げます。
     昭和20年8月15日大東亜戦争は終戦を迎えます。しかし、・・・そのわずか4日前の8月11日・・・加治木大空襲。吉兵衛の家も工場も、もちろん製綿機も全て焼けてしまいました。全てが無くなりました。愕然とする暇もなく、ただ生きるために加治木町西別府の菖蒲谷に吉兵衛の家族は疎開することになります。その時、私の父、故吉弘は14歳。
     昭和22年、吉兵衛は疎開していた菖蒲谷を離れ、焼け野原になった元の場所に家を建てることを決断。大工さんが建てるのではなく、家族で建てる「掘っ立て小屋」です。雨が降れば雨漏りがする。家族がやっと寝れる小さな小屋です。生活は製綿機がないので、綿屋はできず、物々交換で生活をしていました。そんな頃に父(吉弘)は京都の宇治に就職することになります。

  • 綿屋の再開

     昭和26年、吉兵衛は、綿屋を再開することを決めます。掘っ立て小屋はそのままに、その裏に工場を建てます。今度は大工さんが建てました。(この工場を、今でも私は大切にして機械は動いています)製綿機も購入しました。仕事はすぐに軌道にのりました。父も京都から帰郷し、綿屋の後を継ぐことを決めます。屋号も「川村わた屋」から「日乃本製綿所」に改名。戦後、敗戦した復興の時代に「日乃本製綿所」という屋号・・・吉兵衛は何を思っていたのでしょう。

  • 父 吉弘の結婚

     昭和32年、吉兵衛の長男である父(吉弘)が結婚します25歳。父は9人兄弟。今のような核家族ではなく、みんな同居。そんな中に、曽於市末吉の酒屋の長女ケイ子が嫁に来ました。20歳。(私の母ですね。)仕事内容は知らされず、嫁に来て、はじめて、自分も綿の製綿をさせられる事に気が付きました。当時の製綿機は、綿を打つ時にものすごい綿ホコリが出ます。顔から体から綿まみれになります。いわゆる汚い仕事。しかも父の一番下の妹はまだ6歳。事実を知った母は、すぐにでも実家に引き返したかったが、長女の責任で、ここで帰るわけにはいかなかった。妹たちが同じようなことをしてはいけないと思いました。


  • 吉一の誕生

     昭和38年、川村ふとん店に待望の長男(吉一)が産まれました。(私ですよ。)そうです。私の家系は長男に吉がつくのです。ちなみに、吉兵衛のお父さんは吉之助です。
     私は、末っ子の長男。姉二人と伸び伸び自由に育てられました。私の家は商売なので家とお店が一緒という感じです。だから、みんな忙しいのですが、私が一人ぼっちになるということはありませんでした。誰かしら、必ず私の近くにいて、寂しい思いをしたことはありません。


  •  よく婆さんには、「こんな良い仕事はないから、お前は、布団屋の後を継げ…」と言われていました。小さい頃から婆さんに洗脳されていましたので、小学校の卒業文集には「布団屋を継いで世界一周をする」と書いています。

  • 吉一憧れの職業

     憧れの職業もありました。小学校の先生です。…でも、そのわりには勉強嫌い!成績もあまりよくないし、一人息子の責任があったのでしょうか…。布団屋を継ごうと決心したのは高校2年生の時です。当時は布団といえば綿布団ばかり。羽毛布団なんて布団屋の私も見たこのない贅沢品でした。良い布団を作れば金儲けができる!それには、まず布団作りから…そんな思いから、高校を卒業後上京!東京布団技術学院という専門学校に入学することになりました。


  • ポケットの中には…

     さて、入学してからがまた大変!布団屋の息子でありながら、両親の布団作りを見たことはあるものの、手伝ったことはなし。触ったこともなし!まして、高校時代は空手や柔道など格闘技に夢中でしたので、針なんて触ったこともありませんでした。布団作りに針が必要だ!と気付いたのも入学してからです。ですから、寝ても起きても運針練習。早く手縫い出来ない事にははじまらない。…ポケットの中にはいつも針刺しと運針布(手縫い練習用の布)を入れていたことを思い出します。運針布にはいつも血がついていました。
     専門学校での修行も終わり、やっと後継ぎとして自分のお店で働くことが出来ます。外でもっと修行をするという道もあったのですが、私の爺さん吉兵衛の体の具合もあまりよくなく、母への負担も大きいようだったので、そのまま実家での修行となりました。

  • 昔ながら…へのこだわり

     布団作りは好きだったのですが、製綿するという作業に慣れるのは大変でした。体中、綿まみれ。同級生たちは、ソニーや京セラに就職。いい車を買って、たくさん給料をもらって、彼女もいたりなんかして・・・工場の中で一人「こんな事をするために生まれてきたのか!」と思っていた若い頃も懐かしいです。
     しかしながら今となっては、工場の綿の匂いは、昔の思い出そのものです。爺さんも婆さんも元気な頃が、昨日のように思い出されます。 時代も少しずつ変わり、人々の生活スタイルも変わってきました。周りにも大きな布団屋さんがどんどん出来ます。新しい羽毛布団、羊毛布団、マットレス、化繊布団…チラシがトンドン入ってきます。
     そんな中でも、川村ふとん店は、昔のまま、綿のお布団にこだわり続けます。

  • 祖父母の死

     昭和59年5月20日、創業者の爺さん吉兵衛が自宅で息を引き取ります。その13年後の平成10年5月21日、婆さんの初子も息を引き取りました。初子は口下手な吉兵衛と違い、笑顔で明るい性格。朝から日が暮れるまで行商で吉兵衛を支えてきました。



  • このままで良い?

     時代の波に乗り切れない当店に、いろんな人たちが「このままじゃダメだよ!」とアドバイスされることが多くなります。その頃20代の私には野心もあります。「このままで良い」という両親の声を聞かずに、既製品の商品を扱いだします。営業もはじめました。売り上げも一気に上がった時期もありました。
     いろんなメーカーが儲け話を持ってきます。しかし、そんな中で、私は、なんか違う道を進んでいるのではないかと疑問を持ち始めます。平成10年、私に転機が訪れます。婆さんの初子は亡くなりましたが、私にも長男が産まれました。・・・そんな年の出来事です。ある寝具メーカー取扱店グループの若手後継者の会議が福岡でありました。その会議での出来事…ある布団屋さんが私に質問したのです。

    「川村さん、子供が睡眠中に、冬でも布団を蹴とばすのは何故だと思う?」

    私が答えた言葉は、「子供は元気が良いから…」だったのです。

    今、思えば、勉強不足でとても恥ずかしい言葉です。本当は「布団が蒸れているから」なんです。元気が良いのではなくて心地悪いんです。それから、私は、インターネットや雑誌などで睡眠について調べました。調べる中で、ある寝具メーカーの名前が浮かんできたのです。

  • 寝具メーカー「イワタ」と…

     京都の、創業190年という小さな寝具メーカーです。「イワタ」といいます。ほとんどの方はご存知ないかもしれません。小さなメーカーですが、寝具メーカーとしては、異例の50にも及ぶ特許技術をもつ会社です。全国には熱狂的に支持する布団屋さんが多い事でも知られています。
     さっそく、イワタと取り引きのある静岡県にある布団屋の友人に問い合わせ、取り引きの手続きを踏むことになりました。

    ところが…

     取り引きはできないことはないけど、イワタの商品を販売するには、睡眠環境塾に入塾しなければならないとのこと。睡眠環境塾とは、イワタが販売店に対して、睡眠に関する正しい知識を指導し、睡眠環境アドバイザーを育成しようと主催する研修センターです。
     なにせ、イワタの寝具に対する考え方は、これまでの常識を全て否定しなければならない程の、こだわりようなのでしっかりとした知識が必要なのです。私は、「やるしかないっ!」と決心し、滋賀県まで無いお金をかき集めて、2年間、鹿児島から通いました。
     それが、20年前です。その時、研修センターで、夜、使用したイワタの布団のサラッとして暖かいこと。布団屋の私が、これまでに体験したことのない寝床の感触だったのです。それがイワタの寝具だったのです。まさしく、私が探し求めていた物で、その時感じた感触、感動を、自分のお客様にも伝えてゆきたいと思いました。

  • 受け継いだ伝統、そして奇跡的な出会いとご縁

     現在では、亡くなった爺さん、婆さん、そして父から受け継いだ日本の文化でもある手作り綿布団と、奇跡的な出会いと縁で繋がった京都イワタの寝具を一人一人のお客様にお伝えしています。

    睡眠工房 川村ふとん店
    店主 川村吉一